観ているときのほうがうまく指せる理由
ソファからなら一目でわかる手が、盤の前では見えなくなる — その正体を解きほぐす
配信を見た人も、友人の対局を横で眺めた人も、たいてい同じ経験をしています。勝ちになる手は一目瞭然で、どうしてそれを指さないのかわからない。ところが自分が盤の前に座ると、同じくらい簡単なものを見落とす。
これは記憶のいたずらではありません。観ることと指すことは本当に別の認知作業で、観る側の負担を軽くする要因がいくつもあります。
局面を背負っていない
指しているとき、あなたは同時にいくつものことをしています。局面を追い、持ち時間を配分し、結果を気にし、相手が三手前に何をしたかを覚えておき、そのうえで指し手を決める。観るときはそのほとんどが消えます。局面の前に立ち、意識のすべてを唯一大事な問いに向けられる — ここでの最善手は何か。
これは負荷の問題であって、実力の問題ではありません。指している人の知識はあなたと変わりません。ただ、その人の処理能力の大半が、手を見つけること以外のすべてに割かれているのです。
問いを立てたのは自分ではない
観る側はたいてい、すでに「面白い」と印のついた局面から加わります。解説者が「ここで何かありますね」と言い、評価値が跳ね、あるいは友人が手を止めて眉をひそめる。良い手が存在することを、それとなく教えられているわけです。
これは途方もない有利さで、しかも見落とされがちです。実戦の難しさの半分は勝ちの組み合わせを読み切ることではなく、この局面こそ腰を据えて考えるべきところだと気づくことにあります。盤の前では、どの手が急所かを誰も教えてくれません。
同じ難度でも問題のほうが実戦より易しく感じられるのはこのためです。問題には、解が存在するという保証がついています。
思い出すより見分けるほうが楽
一九四〇年代のデ・フロートに始まり、のちのチェイスとサイモンへと続く棋力研究が明らかにしたのは、強い人が弱い人より格段に深く読んでいるわけではない、ということでした。強い人は局面の中の意味あるパターンを見分けており、記憶も駒を一つずつではなく、見慣れたまとまりとして組み立てられています。
パターンを見分けるほうが、候補手を一から作り出すより負担の軽い作業です。観ているときのあなたは、ほとんど見分けているだけです。局面が目の前で進み、見覚えのある形が浮かび上がってくる。指すときは候補手を自分で生み出さねばならず、しかも重圧のもと、そこに何かがあるかどうかもわからないまま作業することになります。
正直に断っておくと、パターン認識についてのこの一般的な知見はよく確かめられている一方、人は観戦しているほうがうまく指せるという個別の主張は、私たちの知る限り、統制されたチェスの研究で直接測られたことがありません。ここで述べた仕組みはもっともらしく、多くの指し手が同じことを語っていますが、証明ではなく説明として受け取ってください。
自尊心が絡んでいない
他人の対局を観るのに代償はありません。ばかげて見える手でも検討し、正直に評価し、そして捨てられる。間違えても何も起きないからです。
自分の対局では、見るのがつらい手があります。自分の構想が失敗したと認める手、三手前の判断が誤りだったと認める後退、攻めると決めた後で必要になる受けの手。指し手がこうした手を取りこぼすのは技術が足りないからではなく、それを検討することが居心地の悪い事実を受け入れることになるからです。
観る側にはその死角がありません。指している当人に見えない可能性が見えるのは、これも一因です。
ここからどう活かすか
実用になるのは、自分の対局の振り返り方です。自分の対局を他人のもののように眺められれば — 自分の判断を弁護せずに — 観戦時の見通しの良さにかなり近づけます。数日おいてから見直すのも有効で、感情的な思い入れが薄れているからです。
対局中の習慣としても一つ勧められます。ときどき「これを観ていたら、画面に向かって何と叫んでいるだろう」と自問してみてください。ばかばかしく聞こえて、実際に効きます。ある種の手を見えなくしている枠組みを、意図的に外す作業だからです。
そして、自分の指し手にもう少し寛容になっていいはずです。観ているときの見え方と実際の指し手の差は、当たり前で、誰にでもあり、思っていたより弱いという証拠ではありません。